存在と時間 第12節

第12節 内存在そのものに定位することにもとづいて描かれた世界内存在の下図

「現存在は、おのれの存在において了解しつつこの存在へと態度をとっている存在者なのである。

 「実存しつつある現存在には、本来性と非本来性との可能性の条件として、そのつど私のものであるという性格が属している。」

「世界内存在という合成語は、この合成語が造りだされたことからしても、この合成語でもって一つの統一的現象が指さされているということを、すでに暗示している。」

1『世界の内で』

2そのつど世界内存在という仕方において存在している存在者。

3『内存在』そのもの

「これら三つの機構契機のうち特定の一つを引き立てることはいずれも、他の二つをいっしょに引き立てるということを意味する」

「実存範疇としての世界の『もとでの存在』は、出来する諸事物がいっしょに事物的に存在しているといったようなことを、決して意味するわけではない。」

「二つの存在者が世界の内部で事物的に存在していて、そのうえそれら自体自身では無世界的に存在しているかぎり、それら二つの存在はたがいに決して『接する』ことはできず」

「差しあたって肝要なのは、実存範疇としての内存在と、範疇としての事物的存在者相互の『内存性』とのあいだの存在論的区別を見てとることだけである。」

「内存在のこれらもろもろの在り方は、配慮的な気遣いという、さらに立ち入って性格づけられるべき存在様式を持っている。」

「われわれの根本的探究においては、『配慮的な気遣い』という表現は、存在論的術語[実存範疇]として、なんらかの可能的な世界内存在を表示するのに用いられるのである。」

「現存在には本質上世界内存在が属しているゆえ、世界へとかかわる現存在の存在は本質上配慮的な気遣いなのである。」 「現存在は、『差しあたっては』いわば内存在を免れた存在者であって、世界とのなんらかの『関係』を結ぼうという気まぐれをときにはおこすような存在者では、けっしてない。」

存在と時間 第11節

第11節 実存論的分析論と未開の現存在の学的解釈、「自然的な世界概念」を獲得することの諸困難

 「むしろ日常性は、現存在が、高度に発展して分化をとげた文化のうちで活動しているときですら、またそうしたときにこそ、現存在の一つの存在様態なのである。他方また未開の現存在は、非日常的な存在というおのれの諸可能性をもって」

存在と時間 10節

第10節 人間学、心理学および生物学に対して、現存在の分析論の境界を画すること

「現存在をめざしてなされたこれまでのもろもろの問題設定や探究は、それらが事象的におさめた成果にもかかわらず、本来的な、哲学的な問題を逸している」

「現存在の実存論的分析論は、『我存在ス』の存在に対する存在論的な問いを設定するのである。」

「事物性自身が、まずおのれの存在論的由来を証示される必要があるのであって、かくして、主観とか霊魂とか意識とか精神とか人格という事物化されない存在が、いったい積極的には何と解されるべきであるのかが、問われうるのである。」

「すべての学的な真面目な『生の哲学』… …の正しく了解された傾向のうちには、表立たずに現存在の存在の了解内容をめがける傾向がひそんでいる。『生』自身が一つの存在様式として存在論的に問題にならないこと… …生の哲学の原則的な欠陥なのである。」

「シェーラーの学的解釈をわれわれは実例として選ぶが… …人格はシェーラーに従えば、けっして事物とか実体とかとして思考されてはならないのであって」

存在と時間 第9節

第9節 現存在の分析論の主題

「この存在者の存在において、この存在者はそれ自身おのれの存在へと態度をとっている。」

・現存在は対自である。

1・存在者から存在が把握できる。

「現存在の『本質』はその実存のうちにひそんでいる。」

「この存在者で明らかにされうる諸性格は… そのつどこの存在者にとって可能的な存在する仕方であり、また、これのみである。」

2 「現存在というこの存在者にはおのれの存在において存在へとかかわりゆくことが問題であるのだが、そうした存在は、そのつど私のものである。

「また現存在は、存在するあれこれの仕方においてもそのつど私のものなのである。いかなる仕方において現存在がそのつど私のものであるのかは、すでにつねに、どのようにかして決定されてしまっている。」

「本来性と非本来性という二つの存在様態… …は、現存在が、総じて、そのつど、私のものであるという性格によって規定されているということのうちに、その根拠をもっている。

・現存在の非本来性-「現存在の最も充実した具体化にしたがって、現存在を、その多忙、活気、利害、享楽力において規定しうるのである。」

存在と時間 第8節

第8節 この論述の構図

「われわれの考究は、現存在という特定の存在者についての特殊的解釈の道を通って存在の概念へ迫ろうとするのであるが、それというのも、存在の理解と可能的解釈とのための地平が、この存在者の解釈において得られるはずだからである。しかるに、この存在者自身はそれ自身において「歴史的」なのであるから、したがってこの存在者そのものの存在論的照明は、必然的に「歴史学的」解釈になるわけである。」

存在と時間 第7節

第7節 根本的探究の現象学的方法

「存在論の方法というものは、歴史的に伝承されてきたさまざまな存在論などの試みを参考にしようとするかぎり、最高度に疑わしいものでしかない」

A 現象という概念

「『あるものごとの』《現象》という意味での《現象》は、そのものがおのれを示さないこと、かえって、おのれを示すものを介して、おのれを示さないものが通示される(sich melden)こと、をいうのである。」

「《現象》という言葉そのものも、これまた二重のことを意味しうる。すなわち一方では、『おのれを示さずにおのれを通示するという意味での《現象》(Erscheinen)』を意味し、また他方では『それを通示するもの自身、すなわち、おのれを示しつつ他のおのれを示さぬものの通示者となるもの』をも意味しうる。さらにまた《現象》という言葉は、『おのれを示すこと』という現象(..ドイツ語..phenomenonか)の真正な意味を表すためにも用いられることがある」

存在と時間 第6節

第6節 存在論の歴史の破壊という課題

「現存在は、あからさまにそうしているかどうかは別として、自己の過去を存在しているのである。」

「現存在は、それがそのつどその内に存在している自己の世界にもたれかかり、この世界の側から返照的に自己を解釈する傾きがあるだけでなく、それにともなって、現存在は、多少ともわきまえて選んだ自己の伝統にもたれかかるものである。」

「存在の意味への問いは、未解決であるだけでなく、そしてゆきとどいた形で設定されていないだけでなく、「形而上学」へのさかんな関心にもかかわらず、忘れ去られている。」

「デカルトの存在論的拠点を踏襲したために、カントは現存在の存在論を逸するという本質的な閑却に加わったと述べたが」

存在と時間 第5節

第5節 存在一般の意味を学的に解釈するための地平から邪魔物を取り払うこととしての現存在の存在論的分析論

「この存在者へと近づく通路の正しい様式を表立って我がものとし安全にしておく必要がある」

  「現存在がおのれに属する存在様式に応じて持っているのは、むしろ、おのれが本質上不断に差しあたってそれへと態度をとっているところの、まさにその存在者のほうから、つまり『世界』のほうから、自己固有の存在を了解しているという傾向である。」  ・現存在の解釈は、道具連関の側に手がかりがある・

現存在の了解のされ方は、まず「存在的・存在論的に第一次的に与えられている」と考えられがちだが、じつは遠いものである。

現存在の学的解釈の持つ諸困難は、この主題的対象とそれを主題化する態度自身との存在様式のうちにその根拠を持っている。(自己言及的?)

「存在への問いにおける第一の要件は、やはり現存在の分析論なのである。」

「われわれが現存在となづける存在者の存在の意味として挙示されるものは、時間性(Zeitlichkeit)である。

「われわれは、存在とそれの諸性格および諸様態が時間にもとづいて根源的に意味づけられているその規定性を、存在の自時節的規定性となづけることにする。」

「存在問題への答えが研究の手引きの教示となるのだとすれば、その答え自身も、従来の存在論の特有な存在様相や、その存在論の問いと発見と挫折の歴史的運命などが、現存在にぞくする必然として見とどけられるようになってはじめて、行きとどいた形で与えられるということになる。」